西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書) review ↠ eBook or Kindle ePUB

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西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書) review ↠ eBook or Kindle ePUB Â ❰Download❯ ➵ 西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書) Author 佐伯啓思 – Dcmdirect.co.uk 考えに考え抜き、「自分の底」を突き破った先考えに考え抜き、「自分の底」を突き破った先にあるものとは――。 生きる悲哀、世の不条理や人生のさだめなどを、歩きながら沈思黙考し、 京都から「日本人の哲学」を生み出した稀代の哲人。 自分であって自分でなくする「無私」とはどのような思想なのか。 その根源にある「無」とは何か。 純粋経験、理性と精神、死と生、悪魔的世界、日本文化と神、特攻精神と自死、宗教意識、ポイエシス、. 非常に分かりやすく日本と西洋の思想の違いを説明してくれる。ハイデガーに似てるところもあるがハイデガーは未来思考に対して西田は現在思考という違いがある。ハイデガーの被投性と投企や固有の死が実存条件を変革するという話と酷似した話が西田哲学にも登場する。どちらも主体を世界内存在と考えているためにハイデガーと西田には共通点があるように思われる。とりあえずユング好きや木村敏好きなら絶対に読んでおくべき本である。鈴木大拙読者として知られるユングとは極めて親和性が高いがフロイトとは全く相容れない内容であることから、ユングとフロイトには根底的な違いがあることがあらためて分かった。日本と西洋の違いを宗教の差から入って主客を分離するか、しないかの差で説明してしまう。その説得力は凄まじくロジックも堅固である。日本と西洋の実存の形の違いから時間歴史観の違いまですっきりと分かるように説明してくれる。近代合理主義や科学が一つの前提に乗っかったイデオロギーに過ぎないことが暴かれていく、現代社会の限界を論理的に突きつけていく。とにかく凄まじい。思考力があれな人達の科学的エビデンスに基づいた何ちゃらで知識の最大化とかバカはこうして見抜けみたいなことを宣う非常に幼児的な現代人の精神性の問題点が論理的によく分かる。この本を読んでいると昨今のネットやTVを賑わせ無限の虚栄心を拗らせ暴走する自称学者や評論家の知的レベルの程度を痛感する。これまで仏教について全く興味がなく、なんとなくのイメージで、悟りとか諦観だろ、ただのニヒリズムじゃん、と馬鹿にしていたが、仏教のやばさが論理的に理解できた。形なき形をみ、声なき声をきく、という言葉もこの本を読んでみるとすんなりと理解できる。確かに未分化ならばモノに形などなくその時その場所に於いて現成しているに過ぎない。目の前に時計を見るとき、それは便宜的に時計を他の対象と都合よく切り離して時計の一塊として認識しているに過ぎない、時計は色んな素材から出来てるわけでプラスチックや金属がたまたまそのように加工されてその時計の形をとっているに過ぎない。言われてみれば形なきに形を見るというのは普通のことを言っていると分かる。仏教の色即是空 空即是色だとか私は私でなくして私である、のような不思議な話も分かりやすく説明してある。

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根本実在、行為的直観、論理と生命、永遠の今。 弛まぬ思索と悲しい人生遍歴から編み出された「歌」や「言葉」。 日本一“難解と評される「西田哲学」の沃野を、『反・幸福論』で知られる現代の碩学が、難しい言葉や概念をやさしくかみくだき、柔らかな筆致で読み解く。 いまや喪失寸前にある「日本的精神」の核心を衝く、知的興奮あふれる章。 いまを生きる日本人への警世の書。 〈目次より〉. 西田哲学の理解に役立つ。

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西田幾多郎 無私の思想と日本人 新潮新書序章 西田幾多郎の「道」 第一章 「無の哲学」の誕生 第二章 「純粋経験」とは何か 第三章 「絶対無の場所」について 第四章 「死」と「生」について 第五章 特攻精神と自死について 第六章 日本人の宗教意識 第七章 「有の思想」と「無の思想」 第八章 「日本文化」とは何か 第九章 大東亜戦争と西田哲学 第十章 絶筆「私の論理について」 第十一章 「永遠の今」と無始無終の時間 終章 西田哲学の毒. 現代人に批判的な指摘も散見されるが、著者が温かい人情の持ち主であることが、文章から滲み出しているように感じた。西田哲学を網羅的に俯瞰した本ではなく、著者の問題意識にひっかかった箇所を足がかりとして、現代人の生きるべき方向性を模索している本だと言える。抽象度が高く、やや難解な本。以下は、私の印象に残った部分を大幅に簡略化し、コメントを記したものです。日本に論理的思考や体系的な哲学はなぜ生まれなかったか。それは、日本の思索者たちが、自分の経験にもとづき、自分と対話する傾向が強かったからです。西田を含め、彼らは、自己の底を覗き込み、その底を突き破って、その果てに普遍的で絶対的なものを見出そうとしたのです。西田哲学は、唯一といってよい日本発の哲学です。(西田氏がそのような「徹底的に個人的な文章」を追求した結果、それは「世界的なもの」に至った逆説は、注目に値する。下にどんどん掘り下げていくメンタリティは、どの分野で活躍する場合にも、重要かもしれない。)・日本の思想には、どこか「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ち出さないのです。これは、日本語では、しばしば主語を省略する点にもあらわれています。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ詠み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実が享受されると考える。(主体すなわち「私」が発生する以前の「意識の根源」に肉薄する手段としては、英語より日本語のほうが有用なのかもしれない。) ・日本人の感情の核をつくっているものは、滅びゆく者、敗北してゆく者に対する深い共感にあります。このことは、日本近代の精神史に深刻な亀裂を与えてきました。われわれは、西洋文明を模範としてひたすら「勝つこと」を目指しました。外を向き未来を志向した。しかし他方では、時代に取り残され敗れ去るものへの愛着がある。実は、それが自分の姿なのです。「西洋的なもの」が勝者なら、「日本的なもの」は敗者なのです。「西洋的なもの」を志向するほど、自らの手で自己喪失をもたらす後ろめたさがぬぐえない。その矛盾と葛藤こそが日本の近代史なのです。それならば、仮に日本がグローバル世界において「勝者」の立場に身を置いた場合、私たちは日本文化を今ほど愛せなくなるかもしれない。そうだとすれば皮肉なことだと思う。・桜に感動したとき、そこにわれわれは、生のはかなさ、美しさ、時間の無残などをすべて見るのです。だから、春の日の一瞬の至福の時だけで十分だと思うのです。すべてがその一瞬につまっていると思うのです。それを、ありとあらゆる桜を見て歩き、さらには、あらゆる桜を手に入れたいと思う。こんなこととはまったく無縁なのが「無の思想」だったはずでしょう。桜だけではありません。フェイスブックとやらで世界中の人と友達になるよりも、ただ一人の友人を大事にし、世界中の絵画を見て歩くよりも、ただ一幅の思い出のつまったささやかな絵を大事にする。そのただ「ひとつ」のモノとの邂逅にはすべてがある、と考えるのです。世界はモノによって充満するのではなく、一つのモノの中に世界がある、と考える。それは、物事はすべて「無」から出て「無」へ帰するということです。だからこそ、そこには「悲哀」が漂う。日本の哲学の動機が「悲哀」にあるとは、そういうことなのです。人生には「ただ一度の素晴らしい瞬間」があれば、もうそれだけで十分なのかもしれない。足るを知る心を教育することは、大事だと私は思う。「一イコール全」という考え方を推し進めれば、欲望を際限なく肥大させる人類の暴走にブレーキをかけられるかもしれない。・「物となって考え、物となって行う」と西田はいいました。これは、何ものかに憑かれ、突き動かされ、そこにもはや「私」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直感として把握するということなのです。(仏教における「行」は、これと同じだと思う。道具やモノと「一体化」することで、「悩んでいる自分」というものが消えると考えるからだ。)・「愛」は、情緒ではなく、責任の問題なのです。(かつての日本人が西洋人ほど軽々しく「愛してる」と言わなかったのは、この「責任の自覚」と無縁ではない気がする。)